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以下、 『朝日ジャーナル』1985年7月5日号に掲載された記事です。
財団といえば、とかく企業のアクセサリーとか節税対策とか思われがちだが、大竹財団は様々な市民活動を援助したり、いっしょに講演会を開いたり、一風変わった財団である。
創設されたのは1972年。それ以来、竹内直一さんの日本消費者連盟、宇井純さんの自主講座、そこから派生した松岡信夫さんの市民エネルギー研究所などを援助してきた。公害や原発に反対しているグループと企業がつくった財団の結びつきは、これまでの“常識”を破るものだ。
同財団が主催する月一回の講演会も、すでに200回を超えたが、最近3回のテーマを見ても — 3月「アメリカのアジア人」=岡部一明さん(移民資料センター)、4月「見てきたインド・ボパール」=松岡信夫さん(市民エネルギー研究所、同事件を監視する会)、5月「飢えるアフリカ」=柴田久史さん(日本国際ボランティアセンター)— と、これも市民運動型である。
大竹慶明さん、48歳。この財団の理事長である。
「正直いって、経済界では白い目で見られ、異端児扱いされてます。でも、うちなんかフォードやトヨタなどとは比較にもならないミニ財団。ありふれた活動していてもつまんないし、第一、市民運動の人たちとつきあってみると、みなさん純粋で、とても気持ちがいいんです。で、まあ、私が知り合った範囲内の草の根グループの人たちに協力してきた。それだけのことなんですよ」
慶明さんの父、仙松さんは、貧困から身を起こして、貸しビル・倉庫業で財をなした。いわば立志伝中の人である。
もろもろの うらみつらみを
泡と消し 心やすけく
生きなん われら
仙松さん、晩年の歌である。
「資産はできた。だが、人生を金儲けだけで終わりたくない。この金をもっと甲斐のあることに使えないものか」
何か社会に役立つことをと考え、東京駅八重洲口前に所有している9階建ての5階ワンフロアを基本財産にして財団をつくった。
突飛な論より事実の調査 目的は「人口問題及び平和問題の調査研究」である。これは仙松さん独特の「平和論」に根ざしていた。慶明さんにいわせれば「あまりにも突飛すぎて、常識的には荒唐無稽の論」なのだが……。
その平和論の骨子はこうだ。
— 戦争の主たる要因は資源の争奪であるから、恒久平和のためには、資源とバランスのとれた人口計画をすすめるべきである。また、各国から兵を出して「世界混成軍」をつくろう。その兵が“人質”の役目を果たして、どの国も戦争を仕掛けられなくなる —。
昨年、設立者の仙松さんは亡くなり、慶明さんが理事長になったのだが、設立時から常務理事として財団と市民運動グループをつないできたのは慶明さんであった。
「父の平和論にはまるで興味はなかったけど、結局、似たもの親子というか……」
心やすけく 生きなん われら - 父の心は引き継いだ。ただし、「突飛な論より事実の調査を」。これが慶明さんの方針だ。そのために市民運動と結びついた。きっかけとなったのは野村かつ子さん(海外市民活動情報センター)との出会いだったという。
アメリカの市民運動の活動ぶりを野村さんから聞いて、大きなヒントになった。資源問題にしても、平和問題にしても、まず第一になすべきことは事実の調査ではないか。
「抽象より具体を重視する野村さんの考え方に共鳴しました」
こうして、慶明さんの市民運動グループとのつきあいが始まったのだが、この行動は当初、仙松さんをだいぶあわてさせたようだ。
しかし、慶明さんは意に介さず、ゴーイング・マイ・ウェー。こうすることが、父の理念に実践で応えることだし、明治のロマンに昭和の行動を持ち込むことになるという思いがあったのだろう。
「私は自分で運動をつくりたいわけではないから、市民運動のだれとでもフランクにつきあえる。そこが向こう側からみえても“安心”なんじゃないですか」
援助するといっても、もちろん一方的な寄付ではない。ギブ・アンド・テークだという。
たとえば、大竹財団は機関誌『地球号の危機ニュースレター』(月刊)を出しているが、その編集を市民エネルギー研究所にしてもらい、財団は編集費、原稿料を受け持つというように、である。
野村さんの海外市民活動情報センター編集、大竹財団発行の『海外の市民活動』も同じ方式だ。
この雑誌を通じて、大竹財団にはネーダーズ・レーダー(ネーダー突撃隊)、フレンズ・オブ・ジ・アース(地球の友)などから情報が集まるようになった。
ギブ・アンド・テークで、大竹財団は外国の市民運動の情報センターとしての機能を果たし、“ユニークな財団”という評価も得たというわけだ。
もっとも、慶明さん自身は、「楽しいからやっているだけですよ」としかいわない。
そして、講演会の日ともなれば、自ら会場の机や椅子の準備にせっせと体を動かす。
「その様子をみると、財団の活動が大竹さんの生きがいになっているんだなということがよくわかります」
というのは海外市民活動情報センターの片岡勝さんだ。
財団活動に哲学を求めて
慶明さんはビル管理会社の社長職と財団での市民活動の手伝いという“二足のわらじ”を生きる。変わりものという風評もないわけではない。が、慶明さんは平気だ。
「たとえば、殺人を犯したとする。法律的には有無をいわさず罰せられる。しかし、人間の内面に入り込んでみると、そう単純ではない。弱肉強食の論理がまかり通るいまの世の中で、弱者ゆえに犯してしまう犯罪もあるでしょう? そこには法律だけで割り切ることができないものがある。でも、多くの人々はそこまで考えはしない。そういう世の中で、絶えず弱い者の味方であったり公害に反対して地道に動いている人に出会うと、立派だなと、私は思っちゃうんです」
この考え方が、慶明さんと市民運動を結びつけた。
10年来のつきあいがある市民エネ研の松岡さんがいう。
「あの人は、その時代の主流じゃないものに、よく目が届く人なんです」
学生時代は哲学青年だった。
経済学部に籍をおいた成蹊大学でも、熱を入れたのはサークルの哲学研究会だった。
「哲学を続けて学者になりたいといってはよく父とケンカもしました」
周辺の話では、卒業後も他の仕事を求めて回り道をし、何年かしてやっと父の倉庫業の会社に戻ったようだ。しかし、それも「弟のほうがむいている」と譲り、ビル管理会社だけを継いだいきさつがある。
「まあ、会社のほうはデタラメをやらない程度に……」らしい。
「だって、子どもにどんな仕事なのかと聞かれたときに、財団のあれこれを話したほうがわかってもらえる。会社の仕事はハンコを押してるだけだもの。それに、こっちはどこでも“社長”の名がついて回って、つきあいにも垣根ができてしまう。そこへいくと、財団のほうのつきあいには自由さがある」
中学三年のとき、大学一年のとき、二度も結核で療養生活を送った。その中で「かなり厭世的になって」哲学に魅せられたのだという。
いまも、話が哲学に及ぶと目を輝かす。デカルトの懐疑的方法からラッセルの論理実証主義へ ー 日ごろ科目な人が滑らかに語り出す。
「私は哲学を生活上の必需品とみるラッセルの考えに一番共感しますね」
慶明さんにとって、財団活動は自己の哲学の実現なのである。財団の援助活動とは、本来、こういうものなのかもしれない。
「欧米では常識になっているけれど、日本でもやっと市民運動団体が企業や財団から資金的援助を受けて、自由に活動を展開していく関係が出てきた。私たちと大竹財団の関係は、そのテストケースだと思う」
と松岡さん。
今後の発展に期待したいネットワーキングである。
(原田信二)
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